―――日本へ隠居して最初の春。
暖かな日差しが降り注ぐその日の午後、僕は急にジョットの家へ呼ばれた。
木造平屋。
瓦葺の屋根に、漆喰の壁。
敷地を囲う黒く塗られた板塀の内側には、寄り添うように植えられた椿の垣根。
イタリアの屋敷より格段に小さく質素な、しかし、一人で住む分には充分過ぎるほど広い。純和風の典型的な日本家屋だ。
その板塀と同じく、黒に塗られた門扉の前に、白い着物を身に纏ったジョットが、門柱に背中を凭れさせ、立っていた。
彼は僕の気配に気付くと、空を見ていた視線を下げ、琥珀色の双眸を細めて微笑んだ。
「来たか、アラウディ」
「僕を呼びつけるなんて、いい度胸してるじゃない。しかも、わざわざ着物に着替えて来いだなんて……」
「まあそう怒るな。良い物を見せてやるから。――こっちだ」
彼は笑いながら僕を手招き、裏庭の方へと歩き出した。ひらひらと上下に振られるその手は、着物の袖の所為もあってか、まるで紋白蝶の様だ。
かく言う僕は、黒の着流しに墨染めの羽織。普段と余り大差の無い、黒尽くめだ。
僕ははあ、と溜息を吐き、白い蝶の後を追った。
家の角を曲がった時、目の前をジョットの袖以外の物が過ぎった気がして、ふと目を上げた。と――、
「…………ッ」
僕ははっと、息を呑んだ。
小さな日本家屋の小さな裏庭。
そこには、枝一面に薄紅の花をつけた、一本の木があった。
その枝先はジョットの家の屋根よりも高く、幹はジョットの肩幅よりも太い。
―――見事、としか言いようの無い、立派な桜の木だった。
「どうだ? 美しいだろう?」
僕の目の前にいたジョットが振り返って、悪戯が成功した子供の様な表情を浮かべた。
「満開になったら、お前に一番に見せたいと思ってたんだ」
「…………」
僕はただ、見蕩れるばかりで声も無い。
ジョットは桜に近寄り、幹に、その白い蝶の様な手をそっと這わせた。
「雨月の家のすぐ近くに空き地があっただろう?あそこに今度、新しい家が建つんだそうだ。これは、その空き地にあった桜だ」
彼の穏やかな声が、まだ少し冷たい春の風に乗って、僕の耳に届く。
僕はようやく、桜から視線を剥がして彼を見た。
「日本には『桜を家の庭に植えると家が傾く』という言い伝えがあってな、近々切り倒してしまう予定だったんだそうだ。―――だが、勿体無いだろう?」
そう言って、彼は頭上の花を見上げる。
「こんなにも立派で、綺麗だというのに……」
薄紅の花の満開の下、白い着物を纏った彼が、憂いを含んだ声音で言った。
その光景が、余りにも雅で、艶やかで、儚げで――。
僕は、
「へえ……、それでわざわざ自分の家の庭に植え替えさせたのかい?―――酔狂だね」
わざと馬鹿にしたような声を出した。
彼がははっと、軽やかに笑う。それだけで、儚げな雰囲気は霧散した。
「雨月にも言われた。止めておいた方がいい、とな。それに、これだけ大きな木となると、ただ植え替えるだけでも重労働だ。人手も足りない。と」
「…………まさか君、手伝ったの?」
「ああ、手伝った」
ジョットは至極あっさりと頷いた。
「正月が明けてすぐだったか、皆が掘り起こした木に縄を掛けて、グローブを嵌めて飛んで運んだ。下ろす時、枝が折れないようにするのに苦労したぞ」
まさか、グローブがこんな所で役立つとはオレも思わなかった。
そう言って、彼はまた軽快に笑った。
僕は額を押さえて溜息を吐いた。
「またそんなくだらない事を……君、僕の決闘の申し込みは絶対に受けなかったくせに…」
「うっ……しょ、仕様がないだろう。お前は強いんだ。まともに戦ったら、命が幾つあっても足りないからな」
少しばつが悪そうに言いながら、彼は視線を逸らした。
『強い』。彼の口から紡がれた単語に、気分が少し浮上する。
「……別にいいけどね。君の家が傾いても、僕は知らないよ」
「まあそう言うな。――それに、こんなに綺麗なものが毎年見られるんだぞ?」
ジョットは、すぐ傍の枝先に灯る花弁を指先で掬い、
「―――家の一つや二つ、くれてやってもいいとは、思わないか……?」
静かに瞳を伏せ、接吻けた。
その時、一陣の風が吹いた。
風は地面に薄く積もった花弁を舞い立たせ、彼の姿を覆い隠そうとする。
「…………ッ?!」
ぞわり、と僕の背に寒気が走る。
何だ、これは……。
「――ッ!! ジョット……ッ!」
<『花見』2へ続く