「――ッ!! ジョット……ッ!」
僕は咄嗟に走り寄り、花を掬うジョットの手首を取った。
その瞬間に、風が止んだ。
彼の琥珀が驚きに見開かれる。
「……あ、アラウディ?」
ジョットの戸惑った声を聞いて、僕ははっと我に返った。強く掴んだ手首を離す。
「ど、どうしたんだアラウディ?顔色が悪いが……」
「別に……何でもないよ」
気遣わしげなジョットの瞳から視線を逸らし、素っ気無く言い放った。
馬鹿馬鹿しい。ただの強い風だ。気の所為に決まっている。
僕ともあろう者が、
―――桜に君を、奪られるかと思ったなんて……。
ジョットは小首を傾げ、まだ僕の顔色を伺っている。僕は話題を変える事にした。
「それより、用件はなんだい?まさか、桜を自慢する為だけに呼んだ訳じゃないよね?」
「ああっ、そうだ!忘れる所だった!」
彼は縁側へと走り寄り、戸の陰に置かれていた一升瓶を取り出した。
「この前、雨月から良い酒を貰ったんだ。一緒に飲もうっ、アラウディ」
「…………」
用件というのは要するに……花見か。
その為の着物か。
日本贔屓のジョットが考えそうな事だ。
「……帰る」
「待て待て待てっ!そう急いで帰ることないだろう?」
「君の考えは読めてる。花見といえば宴会、でしょ?僕は群れるのは嫌いだ」
「安心しろ。オレとお前の二人だけだ」
「…?」
ジョットの意外な発言に、僕は足を止めた。
振り返ると、酒瓶を抱えた彼が寂しそうな表情で僕の袖を掴んでいる。その瞳が、心なしか潤んでいるように見えて、不覚にも心臓が高鳴った。
―――どうでもいいが、その酒瓶はどこかに置いてくれないものだろうか。色々と台無しだ。
「実はな、今朝起きたら桜が満開になってたんで、皆で花見でもしようと声を掛けたんだが、Gもナックルも雨月もランポウも、今日はそれぞれ別口の用があるとかで捕まらなかったんだ。スペードは相変わらずどこに居るのか分からんし…。で、ようやく捕まったのがお前だけだったんだ」
「…………」
僕に『一番に見せたかった』んじゃなかったのか?
何だその「仕様が無いからお前でいいや」みたいな発言は。
僕の機嫌は一気に急降下した。
「……やっぱり帰る」
「待てっ、アラウディ!」
そう言ってジョットは、踵を返した僕の正面に回りこんだ。琥珀の瞳が僕の双眸をしっかりと見据えてくる。
そして、彼はおもむろに、こう言った。
「オレの酌が受けられないとでも言うのかっ」
「……君どこの酔っ払いだい?」
また変な日本語を覚えて……。
ジョットは時々、「サムライ」だの「ハラキリ」だの「ゲイシャ」だの、変な日本語を変な場面で使う事がある。
今の発言は「もう飲めない」という相手に対し、酔っ払いが使う常套句だ。僕はまだ飲んでもいないのに、何でここでそんな台詞を言われなくてはならないのか……。
―――いや、待てよ…?
超直感を持つ彼に気付かれないよう、僕は心の中だけでほくそ笑んだ。彼はまだ僕の眼を睨みつけている。僕はわざと溜息を吐いてみせた。
「――要するに、君は一人で飲むのがつまらないんだね?」
「ああそうだ。折角の花も酒も、一人では味気ない」
彼は頬をむすっと膨らませて答えた。一瞬、摘まんで引っ張りたい衝動に駆られるが、何とか堪えた。
「仕方ないね……いいよ、付き合ってあげても」
「……ッ!ほ、本当か!?」
途端に彼の表情が、告白に成功した女学生のような眩しいものに変わる。頬には淡く朱が差し、琥珀の瞳がきらきらと、光を溢れさせんばかりに輝く。
ジョットのこういう表情を見るのは―――悪くない。
「うん、本当だよ」
「やったっ!ありがとうっアラウディ!早速、肴の準備を…」
「但し」
縁側へ向かおうとしていたジョットの足がぴたりと止まる。こちらから彼の今の表情は伺えないが、きっと冷や汗を掻いていることだろう。
「た、但し……?」
案の定、彼は緊張した声を発した。僕は構わず続ける。
「但し……君が僕にお酌してくれるんならね」
「え…?」
振り向いた彼は、意外そうな顔をしていた。大きな両目を瞬かせ、問い掛けてくる。
「酌……だけでいいのか?」
「君、さっき自分で言ったでしょ?『オレの酌が受けられないのか』って。―――いいよ、受けてあげる」
他ならぬ、君からのお酌だしね。
そう言うと、彼はほうと息を吐いた。
「よ、良かった。てっきりまた、戦えと言われるのかと…」
「へえ、そっちの方が良かったの?」
「いやいやっ、酌の方がいい!むしろ、酌させてくれっ!」
「そう。じゃあ、お願いしようかな?―――光栄だね。偉大なるドン・ボンゴレに、お酌して貰えるなんて」
「いや、オレはもう“元”だ……」
そう言って彼は柳眉を寄せ、少し寂しげな表情をした。
先程とはまるで違う、後悔を内に秘めた―――苦しそうな顔。
僕も軽く眉を寄せ、自分の失言を悔いた。
駄目だ。彼を前にすると、どうしても調子が狂ってしまう。
彼に、こんな顔は似合わないというのに……。
何より僕が、見たくない。
だから僕は、からかい混じりに言う。
「ちゃんと両膝付いて、両手で瓶子持って、『どうぞ』って僕の眼を見ながら注いでね?」
「え…?そんなゲイシャみたいな真似は流石にちょっと……」
苦しそうな表情が消え、代わりに若干頬が引き攣った。
そうだ。こっちの方が彼らしい。
「……あ、アラウディは適当に座っててくれ。オレは肴を持ってくるから!」
そう言い置くと、彼は家の中へと駆け込んで行った。
―――逃げたね。
「もっとも、逃がす気は無いけど……」
喉の奥で、くすっと笑いながら、僕は縁側に腰を下ろした。
「―――で、何でこうなるんだい?」
問い掛けても、ジョットからの返事は無い。
彼は今、僕の膝を枕にスヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。
さっきまで上機嫌で酒を酌み交わし、ニコニコとのん気に笑っていたというのに……。
急に黙り込んだと思ったら、僕に向けて倒れ込んできたのだ。
「まあ、こうなる気はしてたんだけど」
彼は存外、酒に弱い。
イタリアでもジョットの酒に付き合わされたが、その度に彼は途中でダウンしていた。その彼を店から担いで帰って行くのは、もっぱら彼の幼馴染であるGの役目だった。
しかし、今日の酒席はジョットの家だ。もし彼が酔い潰れても、家の中に運び込むだけで済む。
折角の機会だ。先程驚かせてくれた意趣返しに、ちょっとした悪戯でも仕掛けてやろうと思ったのだ。
酔って力の入らない彼を、突然押し倒したりしたら、一体どんな表情を見せてくれるだろう?
―――そう思っていたのだが……。
「まさか、こんなに早く潰れるとはね……」
彼は約束通り、僕に酌をしてくれ、自分も手酌で飲んでいた。しかし、まだほんの二、三口だった筈だ。
僕自身は酒に強い性質なので良く分からないが、日本の酒はそんなにアルコール度数が高いのだろうか?
―――なかなか侮り難い。
「まったく、僕の気も知らないで……」
僕は、今日何度目かの溜息を吐いて、彼の無防備な寝姿を見やった。
ジョットの左腕は縁側からだらり、と垂れ下がり、右手は空の杯を持ったまま、着物の帯の上に落ちている。
絶え間無く舞い落ちる桜の花弁が、彼の金糸に、羽織に、白い着物に降り、薄紅の模様を描き出す。
倒れ込んだ所為で多少乱れた着物の襟元は、滑らかな白磁を思わせる鎖骨を惜しげもなく晒し、少し幼さを残したままの頬は、先ほど喜色を示した時よりも尚、濃い朱に染まり、その薄く開いた口唇は、酒気を含んで紅に艶めく。
―――はっきり言って、目の毒だ……。
「他の連中には見せられない姿だね」
とりあえず中に運んで、布団にでも寝かせよう。
そう思い、ジョットの頭の下から膝を抜こうと身動ぎした。
が―――、
「…ん………う……」
髪と同じく金に透ける、長い睫毛をふるりと震わせ、彼が艶めいた声を漏らした。
―――駄目だ、動けない……。
結局僕は、彼が自然に眼を覚ますまで、枕代わりになる事に決めた。幸い、彼の身体はイタリア人男性の平均よりも大分軽い。重さで膝が痺れる事もないだろう。
杯だけは割れると危ないので、彼の手から取り上げておいた。盆に置いたその杯に、桜の花弁が一片張り付いているのを見て、僕は頭上の花を見上げた。
一つ、思い出した事がある。
ジョットが語った『家が傾く』言い伝え―――あれは、真実だ。
「確か、桜の木の根が成長過程で家の土台を持ち上げて、それで家が傾くんだ」
その家の傾きを、昔の日本人は家の衰退の予兆と見、不吉とみなしたのだと、以前、日本の民俗学の本で読んだ事がある。
その本には他にも、桜に関する様々な伝承が記されていた。
曰く、桜の木の下には死体が埋まっている。
曰く、桜の花が薄紅色なのは、死体の血を吸っているから。
曰く、古い桜には魔性が棲む。
曰く、桜は“サ・クラ”とも言い、サ…即ち、神の宿る“蔵”である。
神性と魔性、双方を宿す霊木―――それが、桜だ。
だから、無闇に伐ってはならないのだと。
危うく伐られそうになった所を救ったジョットに、恋慕の情でも抱いたものか。
それ故にか。
植え替えられて間もないというのに、これほど見事に咲き誇るのは―――。
「……君が神でも魔でも、僕には関係ないよ」
家でも何でも、勝手に持って逝けばいいさ。
―――でも……。
僕は、穏やかに眠るジョットの頬に手を添え、
「彼だけは、あげないよ……」
仄かに酒気の香る彼の口唇に、己のそれを、そっと重ねた。
<了>